Essay~スイス・ジュネーブ留学体験記

スイス・ジュネーブ留学体験記

Uli Laemmli教授から学んだもの

ジュネーブに行く前
1999年3月に学位を取れる予定だった私は、学位を取ったらすぐに日本から出て行こうと心に決めていた。大学院では、相同的組み替え蛋白質のDNA-protein相互作用をいろんな方法で調べていた。この経験から、ゲノムDNAには塩基配列などの一次情報以外にもっと「高次」な情報が隠されていると思い、DNAの高次構造、つまりクロマチンや染色体の研究がしたいと思っていた。ある日、ふとしたことで知り会いになったLaemmli研出身の足立康久さんから、「ぼくは君が行くのは決して勧めないけれども、君がどうしても行きたいと思うのなら、Uliに推薦してあげよう。」という、ありがたくとも意味深な?言葉を頂いた。Uli Laemmli教授は、SDS-PAGEの発明で名高いばかりでなく、染色体や核構造の分野でも知られた有名人である。彼の論文はいつも斬新で、新しいアイデアにあふれていた。このため、私はUli Laemmli教授のもとで研究したいと思い、Uliに今までやってきたこと、ラボでやりたいことのproposalを書いた長い長いメールを送った。すると、驚いたことに30分もせずに、Uliから返事が来た。「おまえのapplicationに興味があるので、指導教官から推薦状を送ってもらうように」とのこと。このあまりのレスポンスの速さに、ちょっと感動してしまった。メールを読んで興味を持ってくれたと思ったのだが、現実はちょっと違ったらしい(後述)。

トラブル続きの日々
 1999年5月、妻と二人でスイスのジュネーブ空港に降り立った。とりあえず、ホテルに1週間ほど滞在し、見つけておいてもらったCarl-Vogtという大学近くの通りの古いアパートに、日本から送ったものを運び込んでいった。ところがこのアパート、大学の職員の持ち家であったので、信用して借りたのだが、とんでもない問題があることが判明する。シャワーを浴びていると、なんと隣の部屋の床の隙間から水が出てきた。さらに、1ヶ月ほどして、アパート1階のピザ屋が繁盛するようになると、お昼時、夕方から夜にかけて、我が部屋の水道の水がでなくなったのである!いろんなところに苦情を言ったのだが、建物自体が古いので、構造的な欠陥とのことであった。そのため、新しい部屋を探しはじめたのだが、ジュネーブの住宅事情は最悪で、なかなか物件がない。このため、朝から数十本のエビアンのペットボトルに水を溜めておき、それをお昼時や夜に使うというcrazyな生活を、新しい部屋が見つかった10月まで半年も続けるはめになってしまった。これに懲りた私達は、部屋探しの際、家中の水道を全開にして流し続け、水が出続けることを(?)、またその水が部屋のどこからも出てこないこと(?)を確認した。

 

筆者ではなく、着ているTシャツに注目して欲しい。
ラボを去る際、ラボメンバーから送られたもの。その右隅にUli Laemmli教授がいる(右:拡大写真)。1940年生まれのUliは現在65歳、その激しい気性はさておき、Scienceをこよなく愛し、筆者が今まで出会った人の中で、もっともcreativeな人である。その左側は、娘さんのCaroline。

 さて仕事の話である。これもアパートに負けず劣らず大苦戦であった。ジュネーブに行った当時、コンデンシンの研究が世の中を席巻しており、その発見に関与できなかったLaemmliラボの染色体研究は「開店休業」状態であった。最初、Uliから言われたテーマは「カエルの卵からの染色体凝縮に必須なヒストンH3kinaseの精製」である。細胞周期の分裂期にヒストンH3のser10が特異的にリン酸化されることは20年前から知られていたが、ちょうどその頃、非常にホットな話題であった。しかしながら、読者はご存知かもしれない。このキナーゼは今でいうAuroraBであり、カエルの卵の系では染色体凝縮には必須ではない!つまり、最初からお先真っ暗なプロジェクトであった。そんなことはつゆ知らず、私はコアヒストンを大腸菌で作り、精製してオクタマーを作り、そして、暑くなる前にカエル70匹から100mlの分裂期抽出液をひたすら作った。それをFPLCで分画していき、ヒストンオクタマーを基質にして、H3のser10をリン酸化する活性を追っかけていった。ところが、カエルの分裂期抽出液はこの活性が複数存在するらしく、どんな分画をおこなっても、ブロードな活性が出てくる。それでも、新しく開発したin-gelアッセイも駆使して、なんとか同定したのはRSK-2であった。このキナーゼ、培養細胞のserum starvationからの復帰によって活性化されるH3ser10をリン酸化する立派なキナーゼであったが、immuno-depletionにより、分裂期の抽出液から除去しても、まだH3ser10のリン酸化活性は残っていた。また当然のごとく、染色体凝縮には何の影響も無かった。惨敗である。
 ここまでで、10ヶ月以上経過したが、ボスUliとの関係は最悪であった。彼はうまくいっていないプロジェクトに関わるのが、大嫌いであった。しかしながら、物品の購入もすべてUliのサインが必要で、何をするのもUliと話をする必要があったのだが、なかなか話をさせてもらえない。朝行けば “I’m impatient.”と当たり散らされ、昼に行けば、”I’m busy.”と言って断られ、夕方に行けば ”I’m tired.”と言って追っ払われた。そして、不毛な毎日が過ぎていった。これは、何も私に限ったことでなく、新しく来たメンバーのだれもが、長短あるにせよ、味わうことであった。この結果、大学院生やポスドクの8割が、何の成果も出ずにラボを去っていくのである。私が応募した1997-8年当時、ラボはほとんど空だったらしい。ただただ人が欲しい、そのような時に、私のapplicationのメールが届いたのである。

転機
 最悪の状態が続いていたが、日本に帰るところがなかった私は、なんとかしなければならなかった。このため、何か別のことをはじめる必要性を感じた。いろいろと考えた結果、Uliが分裂期染色体の構造に関して過去にどのようなことを行ってきたのかを、まず調べることにした。幸い、セミナー室には、過去のラボメンバーの実験ノートが無造作に並べてあったので、私は夜な夜な調べていった。この作業はまさに、Uliの染色体研究をたどる作業となり、楽しいと同時に、非常に勉強になった。うまくいった(publishされた)仕事の試行錯誤の様子が、手に取るようにわかるからである。思いつくことは、それが常識的であれ、非常識なことであれ、取りあえずは何でもやってみるという感じであった。また、私が書いた実験proposalのいくつかはもうすでに試みられていた(脱帽)。このようにして20年ばかりの実験ノートを解読していった結果、一つの方向性が見えてきたのである。
Uliのラボに来たからにはラボのアドバンテージを生かした研究をするのがよいと思い、やはり染色体scaffoldのことを少し調べることにした。染色体scaffoldとは、染色体を2Mの塩などで処理し、ほとんどすべてのヒストンが除かれたときに残る軸状の構造体のことである。30年近く前、Uliらは、この観察をもとに染色体にはクロマチンをループ状に束ねる染色体scaffoldが存在し、これが染色体の形とサイズを決定しているのではないかという「染色体scaffold/radial loop model」を提案した。しかし、このモデルに対して「観察された scaffoldは高濃度の塩によっておこる非特異的な蛋白質沈殿によるartifactではないのか」、という批判が絶えなかったのである。このため、この批判に答えるべく、私は染色体よりscaffoldを精製し、このscaffoldが本質的にトポIIaとコンデンシンからなることを示した。このようやく結果らしい結果を得たのは、ジュネーブ州立病院で娘が生まれ、とうとう父親になった2000年の12月であった。そして、抗体を作製し、染色体を染色すると、トポとコンデンシンがいずれも染色体に軸状に存在することがわかったscaffold =染色体軸ということである。

Best picture in the world
 私が着任する少し前、ラボにはDeltaVisionが設置されていた。写真を撮るのも、Uliは”Best picture in the world”が口癖なので、なかなか大変である。めざすものは“The image which tells you everything”で、要するに「見ただけで、すべてが理解できるようなデータ」である。このため、彼の論文に掲載された写真は美しく、また意図するところが非常に明快であるため、多くの教科書で採用されていた。私は一緒にDeltaVisionの前に座り、「どのようなイメージを撮るべきかについて」を学んでいった。とても楽しいひとときだった。さらに、光学顕微鏡レベルの仕事が一段落し、実際に染色体の軸が免疫染色できれいに見えると、「コンデンシンやトポIIaはクロマチンをどのように束ねているのだろうか?」という疑問が出てきた。このため、今度は電子顕微鏡を使いたいと思い、2002年にドイツのハイデルベルグのEMBLでおこなわれた電顕のEMBOコースに参加し、技術を習得した。このEMBOコースは、ヨーロッパ各国からの参加者が2週間同じところに寝泊まりし、午前中は講義、午後は実習、夜はdiscussionやparty、休日は観光と、休みなしに続く、とてもハードな(?)日程であったが、すばらしい体験であった。折しも、日韓ワールドカップサッカーが開催されており、参加者一同、毎日(サッカーの)結果に酔いしれ、一喜一憂していた。コースから帰ると、さっそく染色体構造をクロマチンレベルで調べるために電子顕微鏡を用いて解析をはじめた。染色体のcross-sectionをみると、クロマチンのループが中心部から放射状にのびており、IIaとコンデンシンがその根もと付近に存在することがわかった(この辺の染色体研究については最近、蛋白質核酸酵素の11月号に歴史的な背景も含めて詳しく書かせていただいたので、興味のある方は読んでいただければ幸いである)。

SDS-PAGEの話
さて、LaemmliといえばSDS-PAGEである。これにまつわる話を少し紹介しよう。Uliが30歳の時、イギリス、ケンブリッジのMRCのAron Klug(後にヌクレオソームやZn-fingerの構造研究でノーベル賞)の研究室でポスドクをしていた頃の話である。その時、そこにはPAGEの研究をしている人がいたらしい。スイス連邦工科大学の物理出身で、物理と化学にも非常に明るかったUliはSDSを加えるとPAGEの分離能が増すのではないかと思い、その彼に「SDSを系に入れてみたか?」と聞いたそうだ。すると、その彼は「入れてみたことはあるけど、うまくいかなかった」と、答えたらしい。その瞬間、Uliはきっとうまくいくと確信したそうだ。そして、何度も何度も条件を検討し、13?回目に成功したらしい。この発明でUliは分子生物学の世界で知らぬ人がいないほどの有名人になり、プリンストン大学に迎えられる。それ以来「他人ができないと言ったら、できると思え」というのが、Uliの信条になった。この言葉には、独創性のある仕事をする上で最も重要なカギが隠されている(しかし、私も含めて多くのポスドクが、この言葉に泣かされたのは言うまでもない)。
 また、Uliからは”feel interesting, do it!”とよく言われた。「もし何か面白いことが出てきたり、思いついたら、まずやってみろ。」ということである。重要な発見は大抵、些細なきっかけから始まる。横道にそれてばかりでは、プロジェクトは進まないが、そのきっかけを掴み取ることが、非常に大切だということを教わった。これに関連して、”play”する「遊び心」の大切さも教えられた。感覚を研ぎ澄まし、遊び心をもって、周りを見渡しながら、Scienceをおこなうこと、これが重要なのだろう。その一方で、彼の口癖は、”That’s not so interesting.”である。彼が面白いと思えなければ、テーマを躊躇なく替えていった。あるプロジェクトがうまくいき出すまでに、4回、5回とプロジェクトを替える(替えさせられる)のは当たり前のような状態だった。このようにして「本当に面白いかどうか?」というGeneral interestが試されていくのだろう。しかし仕事を進める方は、そんなにころころ替えられてはたまったものではない(というか、仕事が進まない)。このため、いい仕事に巡り会うことができずに、ラボを去った人も多かった。また、プロジェクトを守るため、みんな面白いことを出そうと思って、必死であった。Uliからは”You have to defend your project.”とよく言われて、容赦なく攻撃された。このような、緊張関係がよい実験結果を生み出すのかもしれない。同僚だった石井さんが、「ボスがnegativeな方が、データの質があがる」といって、すばらしいデータを量産されていたのを思い出す。

帰国
 さて、スイスのジュネーブでの生活も、4年目にはいると、次の行き先を考えねばならない。スイスでは、ポスドクは基本的にビザの関係で5年しか居ることができない決まりになっているためである。また、Uliからも、いろんなことを十分に学べたと思った。このため、同じデパートメントで働いていた名越絵美さんの勧めもあり、理研の今本尚子先生のラボに行くことにした。Uli研を去るのはいろいろ苦労したが、Uliの”I don’t care about what you will do.”という、ありがたい?言葉と共に、ちょうど5年暮らしたジュネーブを後にした。ジュネーブで生まれた娘はもう3歳になっていた。

謝辞
スイス留学中に貴重な経験をさせていただいた、私が今まで出会った人の中でもっともcreativeなpersonであるLaemmli教授に深く感謝したい。特定領域研究「核ダイナミクス」のニューズレターに執筆の機会を与えてくださった竹安先生に感謝いたします。